日本絵画、無限大の可能性

最近思うのは、日本の昔の絵画(特に江戸時代)は、とてつもなく自由であるということ。自由奔放である。だからこそ、西洋の現代美術の礎となった。

なんでそんなに自由なのかと言えば、それは二次元的・平面的でデザイン的・装飾的であるからだ。

西洋絵画は基本的に三次元空間・立体を二次元である板や布などで表現しようとするから、ある意味人を騙していることになる。極論、ほとんど全ての西洋絵画はだまし絵である。

伝統的な日本絵画は、人を騙そうなどと傲慢なことは考えないし、しない。絵は絵としての分をわきまえているし、彫刻は彫刻としての分をわきまえている。

伝統的日本絵画で表現される絵画空間は、現実の三次元のそれとは違う。そこが西洋絵画の絵画空間との違いだ。西洋は己の内面をも目に見える三次元空間として表現するから、シュルレアリスムのように違和感を感じさせてしまう。内面を三次元で表せるはずがないのである。

日本絵画が二次元的に描かれているのに全く違和感を感じないのは、三次元で描こうとしてない、騙そうとしていないからだ。

三次元空間・立体を描こうとするとき、人は視覚情報と知識に頼ってしまう。だが、視覚情報や知識だけでものごとの本質は捉えられないことを昔の日本人はよくわかっていた。

三次元的に絵を描こうとすれば、途端に現実世界の物理法則や制約に縛られる。

日本絵画の表現する絵画空間は現実の三次元のそれではない。だからこそ、物理法則や一切の制約から解き放たれ、そこには無限の可能性が広がっているのである。