俺の美術教育観

結構今の日本の絵の世界って、社会や学校のせいもあって、「写真みたいな絵=上手い」みたいな風潮あるから、そうなると子供としてはがんじがらめにされて、とても息苦しい感じがする。美大受験する人なんか特に。実際俺がそうだった。

最近昔の色んな日本絵画観るけど、ほんとに自由。現代の日本は視覚的にリアルかリアルじゃないか、2つのベクトルしかないように思う。

昔の日本の絵にはほんとに色んなベクトルがあって、ほんとに良い意味で自由奔放。下手うまみたいな絵もあるし、巨匠でも子供みたいな絵描いたりするからね。そんなに上手い・下手っていう概念もなかっただろうしね。今に比べれば。

今の子供に見せたら、「あぁ、こんなんでいいんだ!」「こういうのもありなのか!」ってなると思う。

これは芸大や名だたる美大や明治政府が悪いんだけど、上手い絵はこうだ!良い絵はこうだ!っていうのを試験を通して、子供に押し付けている。

子供はその基準や固定観念に囚われて押し潰されてしまう。これはいけない。ほんとは絵はもっと自由で息抜きになって楽しいものでなくちゃいけない。

予備校の先生達には感謝はしているが、しかし正直に言わせてもらう。

俺は予備校の日本画コースだったが、そこの経験から言うと、予備校はまず本人が幼少期から持っていた感性を破壊するところから始める。ほんとに意志が強い人なら個性を保てるかもしれんが、個性を破壊される人も俺含め多いと思う。

日本人には日本人の身体が元々もっている伝統、歴史、特性、得意分野があるわけで、予備校や学校はなぜそれを生かさない?なぜ否定する?意味がわからん(怒)。

元々もっているものを潰さない教育をするべきだ。まぁ芸大の試験の合格基準のせいで、そうせざるを得ない訳だけど。

生徒は自分が否定されたような気持ちになり、多くの人が病んでしまう。予備校や芸大でいったい何人が病んでいるんだ?芸大目指した人や入った人はほぼ全員程度の差こそあれ、病んだ経験があるんじゃないか?俺もそうだったし、今だに絵を描くのは好かん。

でも最近日本の昔の絵観てたら、ちょっと描きたくなってきた。

とにかく、今の子供達に日本の昔の絵をたくさん見せたら、ほんとに気持ちが軽くなって、開放された感じになるんじゃないかな?

俺はそういう教育がしたい。これからの時代、昔の日本の絵や、昔の日本文化で救われる人は全世界的に見たって、いっぱいいると思う。俺は人生を救われた。

日本文化で教育を変えたい、日本を変えたい。世界を変えたい。

そういうことを俺はやっていく。

日本絵画、無限大の可能性

最近思うのは、日本の昔の絵画(特に江戸時代)は、とてつもなく自由であるということ。自由奔放である。だからこそ、西洋の現代美術の礎となった。

なんでそんなに自由なのかと言えば、それは二次元的・平面的でデザイン的・装飾的であるからだ。

西洋絵画は基本的に三次元空間・立体を二次元である板や布などで表現しようとするから、ある意味人を騙していることになる。極論、ほとんど全ての西洋絵画はだまし絵である。

伝統的な日本絵画は、人を騙そうなどと傲慢なことは考えないし、しない。絵は絵としての分をわきまえているし、彫刻は彫刻としての分をわきまえている。

伝統的日本絵画で表現される絵画空間は、現実の三次元のそれとは違う。そこが西洋絵画の絵画空間との違いだ。西洋は己の内面をも目に見える三次元空間として表現するから、シュルレアリスムのように違和感を感じさせてしまう。内面を三次元で表せるはずがないのである。

日本絵画が二次元的に描かれているのに全く違和感を感じないのは、三次元で描こうとしてない、騙そうとしていないからだ。

三次元空間・立体を描こうとするとき、人は視覚情報と知識に頼ってしまう。だが、視覚情報や知識だけでものごとの本質は捉えられないことを昔の日本人はよくわかっていた。

三次元的に絵を描こうとすれば、途端に現実世界の物理法則や制約に縛られる。

日本絵画の表現する絵画空間は現実の三次元のそれではない。だからこそ、物理法則や一切の制約から解き放たれ、そこには無限の可能性が広がっているのである。

コロナ禍での美大生のぼやき

コロナの影響で、美術の授業を遠隔でやるという謎の事態が発生しているわけですが、具体的にどうしてるかというと、家で絵を描いて、写真撮って、google classroomで送って、先生からコメントをもらう。って感じで、

 

家で一人で描くし、基本他の人の絵見れないしで、なーんかやる気でないんですよね、他の美大の人もそうですかね?あとやっぱ病みますねー笑。

 

先生のコメントはただでさえ辛辣なのに、文字だけだとさらに辛辣さが増し増しですね。それでこの期間に色々考えちゃうんですよね。

 

「なんか先生の講評でのコメントって、なんか私の人格そのものを否定してる感じがする…」

 

コロナ以前の普段の講評受けててもよく思いました。まあ今回の課題は自画像だったので、余計にそう感じたのかもしれないですけど。でも個人的にはやっぱり作品って創った本人そのものだと思うんですよね。あるいは自分の子どもとか。

 

だから作品を否定することはその人本人や、自分の子どもの人格そのものを否定することになると思うんですよね。それってひどくないですか?

 

例えば、職場で上司に仕事のミスとか技術的なことを指摘されるのならまだしも、人格そのものを否定されたら、それは仕事とか以前に人としてどうなんですかね?って思います。

 

音楽で言ったら作曲に近いかな?自分を表現あるいは、なにかを表現したり、自分の良いと思った音楽を作って、それを否定されたらやっぱりとても辛いと思うし、そりゃ病みますよ。

 

美術に戻りますが、私は芸大ではないですが、芸大の油絵はとにかく病む人が多いらしい、毎年行方不明者が出てると聞いてびっくりしました。私も芸大の日本画目指して予備校に5年くらい通ってましたが、特に昼間部の先生の講評はほんとにひどかったですねー笑。

 

怒鳴り散らしたり、暴言を吐いたりするわけではないですよ、でも、

・「ここはこうしたほうが良いと」と言われ指摘されたところを直すと、今度は「ここはこうするべき」と逆のことを言われる。どっちだよ!笑

・ちょっとでもずれたことをすると、「そういうことしなくていいからー」と怒られる。

・他人と比較され、「これに比べてここだめだよね」。しまいには単純に「君下手だね」シンプルなのが一番きつい笑。

とか色々ありましたね。

 

実際自分も病んで、一年ニートやりましたから笑。めちゃめちゃ実力者の多浪生でも私と同じ状況になった人を知ってます。まぁ正直芸大受かっても、この人絵描くの楽しくないんだろうなーってのが絵から伝わってくる人は結構いますね。

 

結論、予備校やめて大学入って2年3ヶ月になった今、講評について思うことは、

・講評は出なくていい

・先生の言うことは軽く聞き流せばよい

・自分が楽しいことをやれ!やりたいことをやれ!

ってことですね。

 

※もちろん、基礎はもう習得したぞと思っている人の話です。「勉強不足です!ビシバシ鍛えてください!」という人は該当しないですよ。

 

サボれるなら極力サボればいいし、出たとしても(否定してくるやつは)聞き流しとけ!笑。極論言っちゃうと先生は「いいところだけ言ってくれりゃあいいんだよ!」って思いますよ。そしたらそこをもっと伸ばそう、もっと挑戦しよう!ってやる気がでてきますから、良いことしかないですよ。実際私は他人の絵は褒めることしかしないですよ。もし先生になっても、しごいてほしい人以外は基本褒めることだけすると思います。

 

悪いとこ指摘されて納得いかないまま、そのとおり改善して喜ぶのその先生だけでしょ笑 あんたの為に描いてるんじゃねーんだぞっと笑 自分の為、価値を認めてくれる人の為、大切な人の為に描くんじゃねーの?って思いますけどねー

 

そんなことを思いました。ありがとうございました。